憧れと恋は似ているような気がする。
 というよりも、恋の状態に憧れという意識が混ざっているのだろう。
 僕には憧れの人がいた。
 いつも一人で、いつも本を読んでいる。雰囲気があって、景色のようでもあった。孤独ではなく孤高な彼女。空気と混ざってしまっているかのように、誰も彼女を気に留めない。
 初めて彼女を見たのはただ単に、廊下で擦れ違っただけだった。
 それなのにどうしてだったか。僕は彼女を見て綺麗だと感じた。一人でどこかに向かっている彼女は胸を張って歩いていた。臆することも恥じることもないように、一本の道が廊下の壁を突き破って地平線まで伸びているかのように、それはとても美しい歩き方だった。
 次に見たのは教室だ。次の授業が移動教室だったため、僕が廊下を歩いて特別教室に向かっていると、彼女はクラスの窓側の席で本を読んでいた。 ブックカバーも付けていたし、遠目から見てもどんな内容の本なのか解らなかった。けれど、何者にも犯されない領域の中、まるで聖域の中で本を読む彼女の姿 は凛々しかった。
 擦れ違うだけで毎度の如く目を奪われて、全校集会の時などは彼女を探したりもしていた。これが恋ではなかったらなんなのかと聞かれれば、あれは憧れだったのかもしれない、というのが二十歳になった僕の感想だった。



 成人式が終わり、僕が通っていた別府中学の卒業生は市民会館に集められた。行かなくてもいい、という話だったけど、折角なので参加してみた。
 行ってみるとジュースやお菓子が机に並べられいて、教師や旧友との再会を果たして楽しむ皆の姿が目に映る。
 僕は友達が多い方ではなかったけど、決していないわけでもなかったので、当時の友達と昔話に花を咲かせていた。

「しかしお前、中学ん時とは随分変わったよな」
「それ私も思うー」

 と、中学時代殆ど会話もしたことがない女子が同意する。それに続いて周りにいた人達が聞こえていたのか、うんうんと頷いたりして耳を傾けているようだった。

「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「自覚ありなのか」
「大有りだよ。だって、僕は変わりたくて変わったんだから」

 当時の僕は単純に評価すれば陰気だった。小太りだったし、ニキビもたくさんあった。人と喋る時もどもってしまう癖が有った。僕はそれら全てを、それ以上の全ても含めて改善させた。
 なんのことはない、僕は彼女のようになりたかっただけだ。

 中学の卒業から五年間、彼女を忘れた時はない。今回の成人式でだって幾度となく彼女を探している。どうやら彼女は来ていないようだけど、それもまた彼女らしかった。
 僕は彼女のようになりたかったけど、厳密には彼女のようになれなかった。
 孤独を愛せもしなかったし、孤高の雰囲気を持つことは難しかった。孤高というのは育っていく環境で備わる物であって、手に入れようともしてもそうそう入らない。素質や資質が必要なのだろう。

「モチベーションも高かったしね」
「へえ、どんなだ?」
「好きな人がいたんだ。その人と仲良くなりたかった」
「お前、好きな人なんていたのかよ!あん時は一言もそんなこと言わなかったじゃねえか」
「当時の僕は恋は弱者がする者だ、とか思ってたからじゃない?そんなことないのにね」
「ああ、思ってそうだわ。で、誰だよ」
「三年の時にC組にいた――」

 うん?
 彼女の名前はなんていうのだっけ?
 おかしいな、僕が彼女を忘れることなんてありえないんだけど。いや、今でも鮮明に顔を思い出せる。

「あれ、名前が出てこない。ほら、C組でいつも一人だった人いるでしょ。友達が一人もいない人」
「友達が一人もいない人?いんのかそんな奴。重度の虐められっこじゃねえかよ」
「虐められてはなかったよ。虐められてたのは精々僕達ぐらいじゃない?」
 自嘲交じりに肩を竦める。「そりゃそうだ」と友達も肩を竦めた。

「んん、わかんねえな。おーい」
 友達に呼ばれてC組の連中が四五人来た。こいつもこいつで変わったな。中学のときは一緒にトイレで震えていたような仲だったのに、今では人を呼 べるようになっている。成長したんだろうな。昔の僕等に言わせれば退化に違いないけど。「社会に溶け込むことは自殺を超えた自虐である」とか言ってたもん な。馬鹿馬鹿しい。

「C組に友達が一人もいなかった人、ってか女っていた?」
 女と言ってもいないけど、そう言い直したのは友達が僕に対してホモだったら嫌だな、とか思った結果かもしれなかった。いや、ただの常識当てかな?

「一人も?いたか?そんな女」
「友達が少ない子とかはそりゃいたけど、一人もとなると……」

 それにしても誰も彼女を思い出せないようだった。それも仕方がないのかもしれない。あそこまで景色と同化してしまっていたら、目に映っても認識に苦労しそうだ。

「休み時間はずっと本読んでてさ」と補足する。
「工藤?」
「違う。髪は真っ黒で長くて」
「藤堂……は本好きじゃなかったな、確か。お喋り好きだ。あ、そうだ。卒業アルバム見てみるか?先生が持ってきてくれてんだってよ」
「ああ、それなら確実だね。見よう」

 卒業アルバムには必ず載っている。なにせ、僕は何回も卒業アルバムで見ている。見ている、筈なのに――卒業アルバムに彼女の姿はどこにもなかった。

「解った!」

 どういうことだ?とざわつき始めた中で僕は豪快に手を叩いた。

「僕は幽霊に恋をしてたんだ!間違いない!」
「すっげー自信だな」

 友達が腹を抱えて笑う。取り敢えず話を終わらせたかったので、そこからは彼女の話を一切しなかった。
 その後、当時のお調子者は相変わらずお調子者で「飲みに行く人この指とーまれっ」等といい、なんだかんだで大勢が飲みに行った。
 僕は彼女がいるかもしれない、なんて考えて、別府中学校校舎へと向かっていた。


 夕日が差し込んで廊下の中は独特の空間に彩られている。校舎の中を完全に記憶しているわけではないようだったけど、それでもクラスの場所は覚えていた。
 勿論、C組も。

 廊下の窓ガラスがほんの少しだけ開いていた。生徒が閉め忘れたのだろうか?いや、教師が確認すると思うのだけど。
 小さな隙間からこっそりと中を覗いてみる。少しばかり小奇麗になった印象があるけど、間違いなくC組だった。柱の位置をよく覚えている。なにせ、その柱の隣が彼女の席だったから。
 春も、夏も、秋も、冬も。


 はて、彼女は席替えをしていないのだろうか。
 よくよく考えてみれば彼女のことを忘れたことはなかったけど、彼女のことを考えたことは少なかった。考えても浮かぶのは情景ばかりで、不自然にも自然でないことに気づかなかった。どういう思考回路なのだ、僕の脳は。

 そう、あそこの席。
 窓際の、柱の隣。そこに彼女はいた。空気のように、景色のように、儚く、孤高に、独特に、静かに。彼女は本を読んでいた――今と同じように。

 深く息を吸ってゆっくりと吐く。もう一度繰り返して、それから、廊下の窓を乗り越えて教室に入った。
 彼女はそんな僕の様子に気づくことなく本を読み続けている、耽っている。周りには誰もいないかのように、誰もいないと自己主張するように。
 あの頃と同じ姿で、成長もせず。
 夕差しでさえ彼女の黒髪を塗ることはできず、僕には彼女がどこぞの天使のように思えた。天使なのか、化物なのか。妖怪、かもしれないけどね。
 

 僕にしか見えない彼女。僕だけが見ていた彼女。
 意を決して彼女の視界に入り込む。といっても、彼女と本の隙間には入れないので、机を挟んで向かいに立った。

「こんにちわ」

 不変の存在は僕に目をくれなかった。それ所か、声をかけられて刹那も反応しなかった。決して彼女の時が止まっているわけじゃない。彼女は本を読む手を止めはしない。彼女が本のページを捲る……そこで僕は一つの異変に気づいた。


 音がしない……。


 いくら小さな音とだとしても、一切の音が払われている休日の校舎、その教室の中で本を捲る音が僕に聞こえないなんてことはないだろう。ましてやこの距離だ。
 後ろに回りこんですっと覗く。どうやら彼女が読んでいる本は小説のようだった。数行読んだ程度で内容は解らないけど、なんとなくSFの匂いがする本だ。

 彼女は僕に気づかない。
 いつから彼女はここにいたのだろうか。いつまで彼女はここにいるのだろうか。いつまでも彼女は成長しないのだろうか。いつの間にか彼女は消えてしまうのだろうか。
 交錯する思惑の中で、とうとう僕は彼女に触れることはしなかった。
 肩に手を置くなり、頭に手を置くなり、触れることはしなかった。
 触れたら問題だろうけど、触れれば問題はない。
 触れれないことを考えてしまった。すり抜ける映像が浮かんでしまった。彼女の存在を認めたかった。彼女がいないだなんて思いたくはなかった。
 彼女に憧れて、彼女に恋をした僕だから、彼女がいないだなんて確定してしまったら、自覚してしまったら――僕の四年間は空白となってしまう。
 彼女のようになりたくても、彼女がそこにいないのなら。


 ただ、こんな言葉を残して教室を後にした。

「ありがとうございました。ずっと貴女のことが好きでした。貴女のお陰で人生が楽しくなりました。本当に、ありがとうございました」

 流れ出る瞳の雫が何色だったのか、流した張本人の僕には解らないけど、きっとそれは夕焼けに染まった赤じゃなく、彼女の周りに漂う密やかな輝きに似た色だったらいいな、と思う。





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大分昔に書いたやつです。