jpg large
 先日有った奇妙な体験の話をしよう。
 俺は一人暮らしをしていて、八畳程のワンルームの家に住んでいる。
 近くに実家があり、そこには母親が一人で住んでいる。父親は五年前に癌で亡くなってしまった。それも手伝ってか母親は寂しいようで、月に一度は俺の家に遊びに来て、ご飯を作ったり掃除をしたりと世話を焼く。
 俺自身、父親と早くに会えなくなってしまったことから、母親に対して優しくするのはやぶさかではなく、月に一度も会うのは面倒臭いという考えを否定しきれないまま、母親が遊びに来ることを容認していた。
 その日も母親が遊びに来ていて、玄関横に備えつけられた小さなキッチンで料理をし、小ぶりの丸いテーブルに皿を置いて食事をした。
 食事を終えた後はいつもの通りで、テレビを見たりPCで動画を検索して見たり、俺は私事をし、なぜか最近ハマってしまったらしい母親は携帯と睨めっこしてパズドラをやっていたりする。
 俺がカチャカチャとキーボードを叩いて、こんな文章を書くように趣味の文字書きを行っていると、耳に届くパズドラのゲーム音が若干苛立ちを募らせる。いい歳をしてろくな趣味を持てず、ゲームに熱中する母親というのは見ていて楽しいものじゃない。
「そんなことばかりしてると痴呆になるぞ」
「ならないようにするもーん」
 と、既に幼児化の兆しが見え隠れする母親の振る舞いに隠れて溜息を漏らした。
 さて、ここまではいつも通りの日常だ。母親が来訪して、少しばかり苛々している俺がいるだけの、月に一度の日。奇妙な出来事が起こったのは――始まったのは、突然だった。
 がんっと頭を強く殴られた。それも鈍器のような重量感のある物でだ。頭が割れたと錯覚する痛みに大声で悲鳴を漏らした。
 家の中には俺と母親しかいないのだから、俺を殴る人がいるとすれば母親しかいない。
「なにすんだよ!」
 と怒鳴りつけたのだが……即座に首を傾げる。俺は叩かれて数秒も満たない内に母親を睨んで怒声を放った。しかし母親は数秒で移動できないような、丸テーブルの向こう側にいる。それに考えてみればずっとパズドラをやっていて、今も携帯画面に視線を送り続けている。
 更に、さっき叩かれた衝撃は殴られただとか、そんな他愛ないレベルを遥かに超えていて、頭が割れたような痛みすらあった。殺人的な衝撃だったのだ。まるでグラスの灰皿で頭をかち割るVシネマのワンシーンのようだったのだ。血が一滴も殴られていないことも、仮にも母親が息子に与える痛みではない。
 複雑な感情、曖昧な疑念――加えて、母親の反応は一切なかった。
「……母さん?」
 呼んでみてもこちらを向いてはくれない。首を伸ばして見てみれば、スマフォのディスプレイに指を当ててはいるが、微塵も動かしていない。部屋の中に流れる音楽が酷く滑稽で、不気味な物に聞こえた。
「おい!」
 乱暴に呼んで母親の肩を強く掴むと、ごとりと勢い余って、まるで人形のように母親は横に倒れた。その姿勢で固まってしまっているのか、携帯を持つ手や指の位置まで遜色ないまま。そしてなにより、ぞっとするほど表情が無い。能面をくっつけたような、母親の顔をあしらったような、そんな顔つきに俺は肝を冷やした。
 なにが起こっているのか理解できないまま、恐れおののき身を引く。なにをすればいいのか解らなくなって、だからか、慌ててPCに向かいGoogleの検索窓に"母親 動かない"と入力して検索した。しかし、新しいページは開かれない。
 パニックのまま何度もエンターキーを押して、右下のアイコンに×を見つけた。どうやらネット接続が切れているらしい。
 ……いや、おかしい。ネット接続が切れていれば、そういった表示がされるはずだ。PC自体に不具合が起きている。文字は入力できるがページが進まないという、ここでもまた理解不能の現象が起こっている。
「なんだよ……なんだよこれ!」
 次に手に取ったのは自分のスマートフォンだった。なにかあれば携帯頼りというのも、あまりに現代的な思考回路ではあるが、日々頼り切っているものに縋ってしまう姿としては、俺にとって神に祈ることと同義であった。
 ところが、こちらは一切動きはしない。なぜか電源が切れていてディスプレイも真っ暗なまま。それならそれでリンゴのマークが表示され、電池の残量が0なことを教えてくれるはずなのだが、一向に反応はなかった。
 直ぐに布団の毛布を体に巻きつけて、背中を壁に預けてガタガタと震えた。昔のことを思い出す余裕はなかったが、そういえば両親の仲が悪かった時、子供の頃はこうして震えていた。体を守る毛布を纏い、視線の届かない背中を守り、こうして震え続けたものだった。
 泣きそうだ。もう成人したいい大人だというのに、思わず嗚咽が溢れている。すると――母親が反応した。しかし俺にとって嬉しいことではなかった。
 母親はけたけたと笑い始めた……母親の声ではない声で。
「もうやめて……やめてくれ!」
 絶対的に安心なはずの、最も心を許せる家の中での恐怖体験に、臆病で、尚且つパーソナルスペースの狭い俺は人並み以上に恐くなった。
 パズドラのゲーム音、母親の不気味な笑い声。見てみれば、その態勢は一切変わらぬまま。
 助けて、と考えたのは普通のことなのか、俺の弱さなのかは解らないが、助けて、と念じた。その先にあったのは、少なくとも家よりは安心できる外なのだろうが、今は夜。田舎なことも手伝って人気がなく、家よりもずっと恐ろしい外だ。
 ――車が通る音が聞こえた。同時に、壁に預けていて安全なはずの背後から、再度後頭部を強く叩かれる衝撃を得た。痛みよりも恐怖が勝り、カエルが潰れたような声を喉から発せられ……。
「どうしたの!?」
 見ると、目の前に母親がいた。その手にスマフォは握られておらず、放り出された携帯からはパズドラの音声が流れている。俺はキーボードに手を置いて、PCの前で座っていた。
「え……え?」
「大丈夫!?」
 幼児化の兆しも見えない母親の顔となって俺を心配している様子に、緊張していた心の糸が切れて、年甲斐もなく声を出して泣いた。
 あれが白昼夢だったのか、はたまた一瞬の異世界化だったのか、一つも分かりはしなかったが、頼りの綱全てに見放されて、心を許せる人にも場所にも否定されて、もう二度と味わいたくはないと思う、笑えない奇妙な体験だった。